百影堂のブログ

創作人形、あやつり人形、節供人形など…

「ざしきわらし」~杉田明十志人形集 第一集~ 11

11「ざしきわらし」(20cm 1992)

人形は、頭手足は石塑粘土、アクリル絵の具、胴は縫いぐるみ。箪笥は桧、把手は鉄。そのほか古い縮緬など。

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 僕が六つか七つの頃、いとこの女の子が死にまして、真夜中に両親に連れられてお通夜に行きました。女の子は当時幼稚園の年長組でした。その子の家には親戚一同かあつまっていまして、死んだ子はくちいっぱいに綿をほほばって、お座敷の真ん中に寝かされていました。
 又、父が死んだ時も、真夜中に遺体が運び込まれてからお葬式の準備が整うまで、お座敷に北枕に寝かされていました。襖の間から覗きみた覚えがあります。十おになる三ツキ前でした。
 お座敷はいつも薄暗く、神棚や仏檀があり、人が死ねばそこに寝かされ、お葬式の時は棺が据えられます。お座敷というのは死んだ人のための部屋なのだと思っています。ですからお葬式やお年忌の日には襖が取りはずされ、部屋いっぱいに明かりが取りいれられるのでしょう。死んだ人の晴れの日ですから。
 『おざしきぼっこ』を作ってから、この子は死んだ子供の霊なのだと思うようになりました。友人から子供の霊を見た話を聞いたことがあります。ひとつは、ある画廊の椅子の上に、子供の脚だけが座っていたという話。「わたしがすわるんだからどきなさい」と云ったらすうっと消えたそうです。もうひとつは、特殊撮影の人間の首や手足がごろごろしている工房の隅に、男の子がさみしそうにじっとこちらをみていたという話。この子供たちも“ざしきわらし”なのでしょうね、きっと。
 ざしきわらしたちを作りはじめてから、目についたものは――ほんのわずかですけれども――読むようにしていますが、祐川法幢さんの『幽霊・妖怪考』(文殊閣)中の一節にことにむねうたれました。少々長くなりますが、書き写させていただきます。

 『たしかにこの、間引きの問題は、東北地方の「ザシキワラシ」に関する限りは、全く関係の無いものとは言はれないような気がする。寒冷と飢僅に喘ぎ通してきた近代までの東北農村では、嬰児の間引きなどは日常茶飯事のことであった。しかし、母親であった。世間体は水子(流産)であったなどといって言いつくろっているが、内心の責め苦は深い。土間の踏み石の下に埋めるのも、人に多く踏まれることによって、この世に止どまることのできなかった己の業報を晴らして、次の世には幸せを持って生まれて来いという親心であったという。ずい分勝手な親心ではあるが、そうしなければ、親もまた生きて行けない世の中だったのである。そして、年を経るに従って子供の年齢を数えている。「あの児も生きて居たらもう三ツになった」とか、「もう五ツになって、そこら中を駆け廻って居るだろうに」とか、その成長した姿を思わず瞼に浮かべて座敷の中に遊ばせてみる。これも「ザシキワラシ」の姿ではなかったのかと思う。物持ちの旧家の座敷に現われて悪戯するというザシキワラシは、この貧乏人の家の土間の踏み石の下から這い出していったザシキワラシなのであるかも知れない。この物持ちの旧家のおかげで我が家は貧乏暮らしを強いられ、我が身は陽の目を見ることも出来なかった。未熟の霊は未熟のままに歳を取り、遊び盛りとなると、我が家よりは広々とした座敷のある、物持ちの旧家に移って来て遊び廻る。ザシキワラシがどこから来て、そしてまたどこかに去って行くというのは、もともと物持ちの旧家の家の霊ではないからである。』

 現在でも、改築の折りには、土間のあたりから幼児の骨が出てくるそうです。