百影堂のブログ

創作人形、あやつり人形、節供人形など…

「指揮者」~人形集第四集~06

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「指揮者」240㎜ 1996 
(桂、胡粉彩色、古代布、天然石ビーズ)
 なにものにも影響を受けない人などありえない。さまざまな物や人が「私」に触れにくる。ときにあちらから、ときに自分から近づく。しかしどんなに力を受けても私は「私」でありつづけ、なにかちがうものになるわけではない。そとからくる多くのものをまとめ、指揮する「私」というものが、私のなかにあるようだ。

 (1996年から2000年ごろまで、木彫胡粉彩色による御所人形風の作品を制作していた。文章は、手製本の作品集に掲載した、その当時のまま。)

 

「天地」~人形集第四集~05

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「天地」150㎜ 1996 (桂、胡粉彩色、古代布、天然石ビーズ)
 土から生まれて、日月をめぐらす子。

 (1996年から2000年ごろまで、木彫胡粉彩色による御所人形風の作品を制作していた。文章は、手製本の作品集に掲載した、その当時のまま。)

 

「おいのり」~人形集第四集~04

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「おいのり 」125㎜ 1996 (桂、胡粉彩色、洋白)
 生き物のために、人がそこにいてすぐにしてあげられることはなんだろう。祈ることはその一つだ。

 (1996年から2000年ごろまで、木彫胡粉彩色による御所人形風の作品を制作していた。文章は、手製本の作品集に掲載した、その当時のまま。)

「花摘み」~人形集第四集~03

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「花摘み 」150㎜ 1996 (桂、胡粉彩色、洋白)
 はなつます わらしごよ なのらさね

 (1996年から2000年ごろまで、木彫胡粉彩色による御所人形風の作品を制作していた。文章は、手製本の作品集に掲載した、その当時のまま。)

「世界樹」~人形集第四集~02

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世界樹」270㎜ 1996 (桂、胡粉彩色、絹糸、革)
 北ヨーロッパの神話に、ユグドラシル(Ygdrasil)という木のことが語られている。ユグドラシルはこの世界を支えている大きな木である。この木は世界の真ん中にそびえていて、この木が繁っているうちは世界は栄え、この木が枯れればこの世は滅びるという。このユグドラシルとはなんだろうか。世界の存在を支えているものとはなんだろうか。
 存在するというためには、まずそれを認める者がいなければならない。認める者とは、生き物のことである。人にとっては人である。そして人は、誰かの認めている世界に生きているのではなく、ほかならぬ私(人その人)が認めている世界に生きているのである。逆さにいえば、誰かが世界の存在を認めても、私が認めなければ、私にとって世界は無い。しかし、私にとって世界が無いならば、私もまた無い、ということになってしまう。
 ユグドラシルとは私、つまり、人その人のことではないだろうか。私が生き生きとしていれば、世界も生き生きとし、私が滅びれば私の世界も終わるのである。そしてこの私というユグドラシルは、私の幼児的世界に根をはっている。

 (1996年から2000年ごろまで、木彫胡粉彩色による御所人形風の作品を制作していた。文章は、手製本の作品集に掲載した、その当時のまま。)

「みみをすます」~人形集第四集~01

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「みみをすます」150㎜ 1996 (桂、胡粉彩色、絹糸)

 耳を澄ますことは、ただ受け身に聞くことではない。耳を澄ますと聞こえてくるさまざまな音や声を、私への呼びかけと聞き取り、その呼びかけが私の耳を通して、私のこころのなかで統べ合わされ、私のなかに世界が立ち現れる。その立ち現れ様は一通りではない。時々に、また人その人による。その世界は、人その人の世界であり、誰も踏み込むことのできないただひとつの世界である。耳を澄ますことは、創造的な行いである。

 (1996年から2000年ごろまで、木彫胡粉彩色による御所人形風の作品を制作していた。文章は、手製本の作品集に掲載した、その当時のまま。)